鏡とブーメランという小論文

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「人間は得てして皆、自分の事が理解不足である」という話を過去に聞いた話があるのですが、昨今その言葉を噛みしめる機会が増えすぎて辟易とする回数が劇的に増えるという事案が発生しました。最近のSNSタイムライン界隈で毎日のように「お前が言うな!」という事案に遭遇するので…最近は日常的に頭を抱える日々を送っている事になります。鏡の自分を見つめる機会はあるのかどうか、何故あなたはブーメランを投げるのが好きなのか…などなどのツッコミのセリフを飲み込む機会は非常に増えましたが、世の中のニュース界隈にはおおよそそのセリフを100回くらい伝えたい人たちが叫び声という名のツイートをばらまいています

自分の全身像をしっかりと見据えるには、どうしても鏡などの道具を必要とします。私たちの目は常に第三者を見つめていますが、自分自身はどうしても自分の目で見ることが困難です。他人の醜態というものは本当によく見える、自分の醜態はまったくというほど把握できないというのは「自分を知っているかどうかの尺度」としてたびたび材料にされますが、昨今はどうでしょうか。暴論の一方通行化が著しい昨今、自身のご都合主義部分だけがしっかり見えている人というのは実は随分多くなってきたのかもしれません。やはり今日もタイムラインはブーメランで溢れているのでしょうか?

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どの口が「我々は優良種たる人類さまだ!」と叫んでいるのかと小一時間問い詰めたい事案に満ちている昨今のタイムライン、災害や有事といった判断の精細を問われるタイミングになると定期的に大量発生するように思います。そのうっかりした発言がどんなニュアンスで相手側に届くか、そういった予測配慮に欠けた人々が実はすごく多くて、昨今のモンスター社会を構築しているのかと考えるとある種の納得の境地に至るのですが…世の中はいつの間にこんなにも品質低下を招いたのかという頭痛のタネと向き合いたくないという感情に包まれてしまいます。その無配慮発言を自分が受けたらブチ切れるじゃないか、という自分の姿は完全に棚上げして

自分自身の目でもって自分を見ることが出来ないという人間の物的構造はそもそもそういう心の防衛本能が故に出来上がったのかもしれませんが、それにしても主観的かつ自己中心的思考の言い訳にするわけにはいきません。そのための協調性であり知的思考のはずなのですが、彼らはおおよそ自身の利益のためのみの判断と発言ばかりを繰り返し、その攻撃的な発言の意図を汲み取ることなく自己満足を得ようとする…ある意味、その醜悪な姿を知らずに済むために「鏡である自身の知性や理性を放棄した」とすればそれはそれで確信犯であり、やはり特大のブーメラン投擲者なのかという納得の境地に至るのですが。果たして罪深きは鏡なのか人の心の狭さなのか

憎い国の国旗を燃やすのが好きな方々が自国の国旗を踏まれた写真に対して常識論を振り向けるというアレな事案がタイムラインに流れてきましたが、彼らは自分たちがその常識論を棚上げしていることには華麗なまでに一切触れていませんそれが鏡の自分を見たことのない人たちの本質であり、彼らの自己中心的思考の根底にある基礎部分なのですが…彼らが持っているシュプレヒコールのような叫びはそのままブーメランになって返ってくるという想像欠如は、自分自身がそのブーメランの被害者になるまで気付かないというのは…因果応報というか当然の報いというか。そして、そのダメージと同量のブーメランを感情論でもって再度投げつけようとし…その倍以上のダメージが返ってきたら更に、というメビウスの輪を駆け抜けるのが彼らの基本理念のようで…絶対に直らない難病というのは案外近くにあったというか、身近にあったのかという話。

「人間は中身だ!」と「人の中身はにじみ出る」とはわりと密接な関係に有るという話、結論は漫談のネタにもなった「人間は見た目」という話…おおよそ間違ってないというのが泣けるほどにせつない次第。「身だしなみは心の鏡」というのはある種の必然でもあると言われていますが…思考と思想はおおよそ外観的主張に繋がっている都合、その人の人間性は外観に反映されやすいと聞きます。「すっぴんの自分がどんな姿か」というのは実は重要な話であり、見た目に対する意識がそのまま自分の深層心理を表しているというのは…実は昔から言われている一般常識論だったりします。化粧や整形といった選択肢をどう捉えるか…という話も興味深く、それらに対するイメージや意識はその人の心理を描き出すとも言われているとか何とか。災害や有事といった際にその「すっぴんの自分」をどう意識するか…昨今それらについて我が身を振り返る機会は実は多いように思えます。

しかし、昨今のSNS界隈がこんなにも高度なスルースキルを要求するフィールドになっているとは予想だにしていませんでした。「人の振り見て我が振り直せ」というのは本当に重いことわざであると認識するには良い機会になりそうですが、当事者たちが一切自分の姿と行為を鑑みないというのは…実はとてつもない大問題な気がするのですが、私たちにできるのは彼らが「自分の投げたブーメランで重傷を負って自身の愚策に気付くまで見守る」しかないというのは…何とかならないものかとモヤモヤが消えません。21世紀はもっと知的な世界であると信じていた20世紀中期の人たちがむせび泣く姿が浮かぶようでせつなくなります…。

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