さらばSNSの倫理観と思想論

時事・事象・社会現象

もはや「SNS上での議論」というものが体裁を成さなくなってきた感があり、言論と思想の暴論と報復のような図式が形成されるという随分と退廃的な雰囲気が日々醸造されるに至っているという話。「対話という名札のついた意思や思想の押し付け合い」はもはや倫理観のかけらもない罵詈雑言や人格攻撃などに変貌を遂げており、この空間のどこに「多様性のある社会」が形成されるのだろうかという空気感に満ちあふれてきました。差別的・搾取的と声高らかに唱えている人々の多くが「故意か無意識か」は置いておいて差別的・攻撃的な発言・炎上行為に及ぶという事態に及んでおり、傍観している第三者としては「一刻も早く沈黙を貫くなりなんなりしてほしい」という話だったりします。こういった発言にすら噛みつくあたりに収束の余地など微塵も無さそうな感じですが、もはや「本来の論戦の部分」は棚上げされている言葉の乱闘は収まるどころか「燃え尽きるまで炎上し続けている」までありそうな話を多く観測するようになりました。

SNSでの議論活動が片側通行になりがちなのは「同属性コミュニティによる偏向性の増幅」にあると考えています。おおよそSNSでは「同好の士がリンクした関係性」を形成している都合上、炎上に関連する対話発生者の「支持者しかいない」状況が論理的解決を妨げており、発言者の反対意見や第三者意見に対する中立性を損ねたり、必要以上に対立を煽ったりする言論・行動が多発していると言われており、「論より感情」な内容もまた理性的解決を損壊させる動機になっているとかそういう話のようです。いつからSNSはマウントを取り合う地下格闘技場になったのかは知る由もないですが、ソーシャル(社会的)と名のつくネットワークで社会的な振る舞いもできない拗らせた思想家がこんなにも大きな母数で存在するというのは、そもそも多様性を求める昨今の潮流に逆行するような話ではないでしょうか。

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誤解的見解の多くが対話不履行による温度差のあるままの行動に起因するあたりは過去も現在もあまり変わっていないと思う次第ですが、昨今SNSで顕著なのは「マウント取り」という「主張の押しつけあい」で、炎上が鎮火しにくくなってきた現状は「発言者とその支持者しかいない一方的対話」が蔓延してしまう傾向が後方にあるものと思われます。そもそもそれが対話に該当するかどうかというのはまた別問題になりそうですが、彼らは「自身の信じた正義や理論でもって相手を撲殺するまで殴り続けることが正しいことである」と認識しているようにも思えるくらいに「論点をすり替えて自身の主張を押し通す」ことを念頭に置いた発言や議論展開を頻繁に見せています。

SNSで問題化する誤情報の流布と拡散の問題

「SNSで注目度の高い情報を拡散する」ことが一種のステータス化していることに起因していると言われている問題であり、「注目を得るため」や「主張を押し通すため」に虚偽や誤解、多大な偏見を含んだ情報を流布する行為が昨今大きな社会問題化するケースが増えている。SNSでの中傷誹謗の応酬が刑事事件に発展するケースも増加傾向と言われており、精神衛生のためにインターネットを遮断することを推奨される程度には昨今問題視されている。

昨今のこれら事案について特に興味深いのは「フェイクニュースをでっち上げる」ことにも余念が無いことで、主張を通すことのために使えるものは何でも使い、そのためには手段も目的も倫理も事実もねじ曲げてしまうことでしょうか。昨今の報道メディアには中立性は無いとまで明言する内部人も居るという話はSNSでまことしやかに囁かれていた話ですが、もはやそれすらも隠すこと無く逆ギレを展開する人物の方が多くなってきたというのは、ある意味で「メディアの敗北」なのでしょうが、目的も手段もすり替えすぎた彼らにはそれすらも「どうでも良いこと」なのかもしれません。その時の自身の主張を通すことが全てであり、その議論に主体性や一貫性、果ては議論の主軸となる内容が二転三転しようと、その全てはどうでも良いことなのかもしれません。もはや「言葉は通じるが会話が成立しない」という状態であり、「彼らに絡まれることが人生の損失である」と言い切ってしまっても良い状況であり、彼らと交わしてきた議論そのものが無駄に帰結するという話になってしまいます。「議論とは何だったのか」という話にも繋がってきそうですが、昨今SNSに蔓延している議論不能事案というのはだいたいこんな感じなので、それはもう「SNSがもたらしてしまった事故社会」なのかもしれません。人類にSNSという「壁の無い議論スペース」は享受するには早すぎたと結論付けるべきなのかと思うことはこれからも増えていきそうです。

20世紀中期~後期に垣間見てきた情報化社会への羨望は「インターネット時代の希望的観測」であったわけですが、実際に世界レベルでの情報化社会になってみてわかったのは「世界規模で受信できるようになった情報量があまりにも多すぎる」という問題で、主義主張や価値観・倫理観、果ては生活習慣に至るまでに温度差や摩擦を生み続けているという実情に晒される事になりました。世界での最新情報をいち早く受信できるようになったことが良いか良くないかはさておきとして、それらを咀嚼し理解するための時間を確保するには情報の流入量が多すぎ、また多大なノイズ情報や妨害情報なども加味すると、情報社会化するにはまだまだ時代が早すぎた感が否めないのが実情です。それでもメディアや国営機関のフェイクや横暴を暴くきっかけには繋がっており、その恩恵を何かしらの不本意な形で享受する事例も出てきましたが、まだまだその多くを整理整頓し正しく理解するには至らない部分が多大にあると思われます。

インターネットを通じて拡散する諸問題

「多様性を享受する社会を作る」という世界的な目標設定を掲げているものの、実際は自分基準の小さな価値観の「押し付け合い」に終始してしまっているという諸問題が注目されている。思想・文化・宗教観などで顕著な対立関係を生み出しており、それらが移民などのきっかけを経て世界規模の問題に発展しつつあると言われている。また、SNSなどでの情報発信が容易になったことで、インターネット上で「終わらない論戦」に至るケースも増えているといわれている。

現時点で得てきた情報社会化の恩恵といえば、「発信される情報には大なり小なりの主観バイアスが掛かること」が認識されたことで「中立性かつ公正性のある情報メディアの不在」を認知したことでしょうか。そもそも発信記事を書くライターの多くはお金と原稿の草稿をもらって記事を書いており、そこにはスポンサー主観の校閲が入るという仕組みが組み込まれており、それらを踏まえた上で業界に情報が循環しているという話であり、身を危険にさらしてまで真実報道という慈善事業に走る人間が如何に奇特な人々であるかを知るには充分であり、SNSによっていくつかの情報循環の不可解な仕組みが一般レベルに認知されたというのは、問題を多く抱えるSNS普及に於いては数少ない恩恵だったのかもしれません。

これからもSNSに於ける暴論沙汰は増え続けるものかと予想されますが、これらの問題が議論ベースの対話で和解する機会は極めて稀であり、これから更なる情報スペースの混沌化が進むものと思われます。SNSに参加しつつこれらの事案から身を守るには、彼らをねじ伏せるだけの情報量と行動力が必要になるのかと思うと、半世紀前くらいに「情報化による平穏と安定」という未来社会が「完全なる幻想」であったことを痛感せざるを得ません。近未来と言われた21世紀の現実は「高度に情報化された精神的暴力のはびこる世界」だったという話であり、その根底にある基礎部分は特に成長するでも無くあの頃同様に蝕まれており、虚偽と主張とプロパガンダが相も変わらず情報網に垂れ流されるという前世紀の悪夢がより高度に陰湿化された世界でした。人類が衰退するのは時間の問題と提起した人がいたかは知る由も無いですが、100年もすれば後悔の歴史も形骸化するという人間の宿命を観測するには充分な機会でした。

 

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