「無駄のない」という無駄な努力について

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昨今は「無駄のないこと」が賞賛される傾向にある、という話をどこかで聞いたことがあります。不景気が叫ばれた頃からずっとどこかで発言されていたようにも思うのですが、きっと随分前から言われ続けている話であると推測しています。無駄の削減、省力化、断捨離や効率化といった単語はもう随分前から聞くようになったと記憶していますし、そういった事項をテーマにしたコンテンツの類はテレビや動画コンテンツで度々目にしたようにも思います。不景気だからとにかく無駄を減らそうというニュアンスの話は国会の議題にも持ち上がったくらいだったかと思うのですが、その辺の詳細はあまり覚えていません。ただ、ここ数年間くらいずっと「言われ続けている」ように記憶しています。

実際の「無駄のない生活」というものは「味の無いグルメ料理みたいなもの」だと考えています。「切り詰める」ということは「いかにして結果論に直結させるか」ということであり、「課程の部分をいかに省力化するか」ということに帰結するのではないか、「無駄と思われている『余裕』の部分に助けられている部分」は、一周まわって本当に無駄なのかについてはもっと考察の余地があるのではないかと思うようになりました。不景気の時間が長くなるにつれて「必要な無駄」という「余裕」の部分が混同され、ただ「金がかかる」という理由だけで断捨離対象になっていないかと心配になることがあります。「無駄の論点」はそもそもどこにあるのかは誰にも解るものではないのですが、「無駄ゼロという極論」はかなり危険な思考ではないかと思う次第です。どう思いますか?

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企業の人事問題で昨今よく耳にするのが「人手不足」という問題ですが、その問題が顕著化する数年前は「不景気だから人件費をどんどん削ろう」という議論が盛んに交わされていたと聞きます。つまり、「十数年かけて人手を削って、ちゃんと人がいなくなった」という話に落ち着いているのに「職場から人が居なくなったという話をしている」のは、ちょっと矛盾も甚だしい状況ではないかと思うのですが。この辺にはいろいろと議論の余地はあると思うのですが、そろそろ議論そのものが「時間切れ」になりつつあるようにも思います。背景にあるのはだいたいお金の絡む話なのですが、「金がかかる=無駄」という「安直な思考による決断の連鎖」が結果としてこうなっているという話であり、その意識や論理的思考の改善には少なくとも費やしてきた時間以上の時間と労力が必要であり、少なくとも散々搾取されてきたと言われる「氷河期世代」とされる人々は「その改善された時代を見ることが無いまま引退を余儀なくされる」という所まで云われているとか何とか。

労働界隈に於ける諸問題のひとつが「海外からの労働者雇用」であり「日本人労働者の軽視施策」傾向であり、現場では「意思疎通の出来ない就労者が大量にいる」という問題だったりするのですが、もはや「現場機能の維持に必要な数的条件のみのため」にそれらが規定・維持されている状況が多発するようになると、何らかの意思疎通によるトラブルが発生した際に瞬時に機能不全に陥るという状況です。「何故人がいなくなったのか」について熟考の上で「未来に繋がる思考と行動」を起こして欲しいと願うばかりですが、目的と手段が混同されてしまった今となっては叶わない夢でしかないのかもしれません。そもそも気付いていない可能性の方が高い気もしますが。

世の中の状況は「どれだけの判断ミスが積み重なってこうなったかを議論する」フェーズでは無くなってきており、場当たり的な自転車操業のような解決策を山盛りで対応に追われている状況です。それは現場レベルで見れば末期的状況のそれであり、これからそれに付随してやって来ると予想される「想定外の諸問題」に翻弄されるフェーズが近いものと考えています。

「無駄の省力化」という名の「断捨離」がいつ終わるのかは知る由もありませんが、捨てたモノを取り戻すのはどの界隈でも大変な労力を必要とすることで、まして「日本の未来に直結する人的財産」は二度と回収不能な宝石の原石かもしれません。今となってはどうすることも出来ない話ではありますが、これ以上の「未来のカッティング作業」は何としても食い止めておきたいと思う話であります。

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