カジュアルな暴虐について

時事・事象・社会現象

物騒な話だけど、昨今は「物騒は日常」であるといってもいいくらい。SNSが拡散する日々のニュースの中にはかなりの含有量の精神的暴力が含まれていることは誰も口にはしないけど明白であり、政権批判や陰謀論は日常茶飯事で、動画つきで物理的ハラスメントが拡散されていたりするのがここしばらくの日常。タテマエとホンネが交錯するとはいえ各種SNSで拡散されている情報の多くは真っ黒なホンネの部分であり、しかもそれは氷山の一角という話なので…世の中は日常の中に非日常的な暴力世界が蔓延しているといっても過言ではないという話。人は闘争を求めるというのであれば、なんてカジュアルな闘争なんだろうかと。

平和を求める裏で虐殺が繰り返されるという歴史が物語るように、人の裏腹の部分はおおよそ真逆の行為が繰り返されているとかそういう話であり、人間が矛盾をはらむ二面性の生物たる所以でもあり。「言葉がタテマエで、行動がホンネ」というのがおおよそ的を射ている話といわれるあたりに色々と思う部分はあるのですが、言葉の真意はいつだって簡単に覆されるし、言葉とは裏腹の行為に苛まれることの方が圧倒的に多いのが人生。「真面目に生きる人間が馬鹿を見る」というのがそういうニュアンスだとしっくり来るのは、世界で歴史を紐解いたときに「如何なる時代背景にもそういう前例がある」という事実がそこにあるという話であり、それは今なお世界のどこかで日々続いている人間の宿命という…そういう類の話だからだと考えている次第です。異論はあっても、現実の濁流はおおよそそんなもの

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ちなみに、日本でもっともカジュアルな暴虐といえば「いじめ」であると考えています。厳密に分別するのであればれっきとした犯罪行為なのですが、色々な理由付けでもって「いじめ」という名のオブラートに包むと何となく有耶無耶にされてしまうという「もっとも日常にある理不尽」がいじめであり、時代が変わっても減ることがなく、しかも陰湿化かつ隠蔽著しいという話であり、定番の決まり文句は「そんなつもりじゃなかった」で締められるという脈々と続く暴虐の定番だと思っています。毎年いじめによる自殺者を一定数計上している実情があるにも関わらず対策は遅々として進まず、多くは隠蔽され、表面化したところで有耶無耶にされてしまう近代のカジュアル犯罪は年々悪質化し、昨今は老若男女問わずモンスター化した人々によって常に社会に一定の爪痕を残す問題になっています。

最近はSNSを中心に人格攻撃や人格否定などがよく見られますが、中にはリアル犯罪に直結する事例もあったりして…犯罪はもっとカジュアルに身近に存在するという意識は必要なのかもしれません。「我こそは正しい正義である」と自称正論を打ち出す人々は多いと聞きますが、そもそも正義というものが価値観に起因する個人や集団の主観であることはもっと認識されて欲しいと思う次第です。人の命が尊いものであればもっと色々と尊重する思考ができると思うのですが、そういった思慮深い発言よりも過激で攻撃的な発言の方が注目されるのは…闘争を求める心理の方が人は強いのかもしれません。解釈が人それぞれであるが故に自己中心的な解釈がまかり通っているのかもしれませんが、人として疑わしい事にツッコミをいれたらリンチされる時代になったというのは、21世紀の未来人としてどうなのか。思慮深さや倫理観がどんどん退化しているという実情を赤裸々に見せつける昨今のSNSのタイムラインは、7割くらいが憂鬱な事案で満ちているようにも見えます。世の中に神という存在が実在するのであれば、いっそ人類社会に介入して欲しいくらいである…そんなことを考えてしまったりします。

世の中の話題に、疑心暗鬼を煽るワードは尽きません。その疑心暗鬼を煽るワードも、誰かが望んで生まれたワードであることは認識する必要があると思います。それが感情的な言葉で綴られたワードであればなおさら、それが攻撃的意図を纏っているという認識。昨今の政治界隈が「政権批判のための暴虐国会」であり、仕事界隈は「ハラスメント症候群」とも呼べるいじめの蔓延。子供社会でも「村八分ならぬSNS八分」があり、地域社会も似たり寄ったり。平穏無事な平凡な日常がこんなにもレアリティの高いものだったのかと思わせるような出来事が毎日のように起きているこのご時世に、誰が希望的観測を持つというのか。いつの間にかこんなにも闇の深い時代になっていたのかと思うと憂鬱に押しつぶされそうになりますが、これが人間の業の深さというか宿命なのかもしれません。

「人の不幸は蜜の味」なんて言葉を噛みしめる機会が増えるのは遺憾ですが、そもそもずっと昔から「人の不幸を嗤う」のが「笑いのルーツ」という説もあり…モヤモヤと思うことは尽きません。メディアはこぞって人の不幸をネタにしてきましたし、テレビで見てきたコントの類がいつの間にか攻撃的な笑いを求めるようになってきたのは…そもそもそういうことなんだとも思っています。人に優しくなれないのが人であり、人がひとり以下になるまで争いが無くなる事は無い…人間の叡智とはなんだったのか、とかそんな話。

ストレス社会といいますが、ストレスの多くは人間の行為などに起因する「人的問題」という話。地域やコミュニティ、果ては世界情勢に至るまでが人類のストレスであり、ストレスがやがて無関係な人々に向けられ暴虐の材料になる…電車の隣の座席の人から会社の隣の席の人、果てはとなりの国のなんだか偉い人に至るまで「隣人がストレス」という事案だらけという話であり…それはおおよそ的を射たまっとうな話であるという話。こうやって解釈すると「ストレスは回避不可能な難病であり、その根源は人間」と結論付けられ、上から下までストレスの押し付け合いという暴虐が繰り返されているように見える次第で…ある意味「戦いのない日々は存在しない」とかそんな話になりそうなぶっ飛んだ話にもなりそうです。どうしてこうなった。

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