多様性が多様な社会を殺す時代

時事・事象・社会現象

多様性をもっと認知しようという動きが広まりを見せつつある昨今ですが、その反面で多様性に対しての拒絶反応を示す人たちの大声が響き渡るという事案を観測するに至っており、結局の所「ヒトの見地・許容の狭さ」を痛感するという事がありました。フェミニストを名乗る一団が二次元キャラクターの広告やコンテンツに対しての是非を訴えるという事案は1ヶ月以上にわたって延々と観測されましたが、その稚拙な内容の反論文は出せば出すほど論破されるという事態になっており、結局の所は「多様性を否定するサンドバッグに選ばれたのが萌え絵による踏み絵」という事だったようで、何を持って多様と排斥を区分するかは「人々の主観」であると知るきっかけになったように思う次第です。

世界という縮尺が狭くなってきた昨今の情報時代、狭いようで広すぎる世界で観測される価値観の違いはそれこそ数え切れないほどの数を計上するものであり、この幾千・幾万にも上ると思われる価値観の違いをどう区分・折衷して受け入れていくかを話し合うなど、そもそもスタートラインにも立てないような事案じゃないかと思うに至った次第です。これほどまでに多様化を遂げた社会に於いては「受け入れられないような価値観」はどこかに一定数は確実に存在するわけで、それらをスルーするなり妥協して一定量を受け入れるなり出来ない限りは多様性の共存は出来ないわけであり、大声を上げて拒絶だけをする彼らのような行為・行動はそもそも多様性共存と相反する行為になってしまうわけですが、彼らは今日も主観の暴力によって「彼らの『主観による多様性』を強いる活動」に邁進しているとかそうでないとか。

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上は神々の教えにまつわる諸問題から、下は日々の生活ルールに至るまで。そこに違いや障害や国境があるということはそこに受け入れがたい違いがあるからであるということであり、結果としては距離を置くことこそが妥協と安定から導かれた回答であったりするのですが、昨今はその壁や障壁や国境をわざわざ越えて大声を上げることがいろいろな方面で観測されています。主観の強い人々ほど、その謎の理論と行動力でもってやらなくても良い努力に邁進する傾向が強いように思うのですが、彼らは所詮は彼らの中の正義での行動であり、太極に沿った中立的な判断など微塵も前提にしていないというデータを観測するに至った次第です。表現の界隈にゾーニングを求めた人々が、そのゾーニング区域内にわざわざ侵入して「ここに不適切な表現があります!」と大声を上げる問題には未だ解決策が見当たりませんが、そもそも彼らが自分で発言したことや実行した行為について覚えているかというと、そもそも覚えていなかったというのはなかなか尖ったデータだなと思った次第。

結局の所、人の判断力と許容力を鑑みるに「多様性ある社会形成とその維持運営」「実現しがたい難問」であり、距離と壁でもって仕切ってしまうしかないのかもしれません。東西の価値観基準の違いや宗教的価値観の相違、国家戦略から日常の生活観に至るまでで「何故そこに境界線があるのか」を考えてみれば、それは「受け容れがたい価値観の相違」に他ならないのかもしれません。「多様な価値観を受け容れる」という社会的な活動を行うには人口という母数はあまりにも多すぎ、多数決を主体とする判断基準に沿った社会では超少数意見は基本的に淘汰しかされないという性質もあり、なにより人の数ほども存在する価値の判断基準を等価で判断するのは極めて労力が大きすぎるというのが、その境界線を形成する大きな理由だと考えている次第です。人々が世紀を超えて実践してきたことはある種の「価値観による侵略行為」とも置き換えられるのかもしれません。

「宗教や経済・国家レベルの国益」がそれぞれの理由で世界に戦争という局面を引き起こしたというのが私たちの歴史であると認識しています。戦争の裏側には価値観の相違による亀裂があり、それが巨大化した果てに戦争が勃発したという考え方です。やがて地球という惑星上にある国家がひとつになる時代が来るのかもしれませんが、そのタイミングがやって来るならそれは「惑星規模で団結を強いられる機会」であり、「おおよそ全ての価値観相違が淘汰される機会」であると考えています。どう転んでも「友好的かつ融和的な多様性社会の到来」ではなく「強いられるべくしてやってきた非多様性社会の到来」であり、それは軋轢と抑圧の賜物ともいえる不寛容な世界になると思っている次第ですが、時の人がどう判断するかはやはり興味があります。やはり、「寛容は犠牲の上に成り立っている」のかもしれません。

彼ら自身が、彼らの起こした行為をどう捉えるか。それはこれからも興味関心を持って観測していきたいと思っています。歴史が語ってきたものはやはり「多様性の排斥」であり、多様性ある社会というのは「越えられない壁を越える行為」に相当するという話。表現のひとつにすら目くじらを立てる不寛容な世界線の住人にどのような環境ある社会のビジョンが語られるのか、興味深く観測していきたい次第です。境界線が訳もなく存在するわけでは無い、そんな話。

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