昨今の時事ニュースの中には「常識では考えられない類のニュース」が話題になることがあるとのことで、定期的に発生するこれらの事案はSNS界隈では「バカ発見案件」と揶揄されているようです。そういった逸脱行為によるインターネット・タトゥーは「一生引きずる前科になる」という話がまことしやかにささやかれており、実際に類似事件が発生するごとに「過去にあんな馬鹿げた事件があった」と引用されるという憂き目にあると言われています。なぜこういった逸脱行為に及ぶのかという話は定期的に議論の題材にもなるのですが、昨今よく指摘されていると言われているのが「注目願望」という話で、「SNSに於ける注目度を上げたいがための愚行ではないか」という指摘が一番的を射ていると言われているようです。その「一瞬の注目のために人生を棒に振る」というのはいささか釣り合わないようにも思うのですが、どうしてそのような行為に及んでしまうのか。
その「注目願望に至る病」と言われている一因が「いいね!」の数と言われており、界隈では「いいね病・いいね症候群」などと蔑視を込めた表現がされることもあるようです。彼らの愚行・危険行為の類は「共感を得るための行為」として認知されているようで、界隈の良識ある人々から見れば迷惑極まりない行為なのですが、その「馬鹿げた行為を賞賛する同類の方々」が一定数評価をつけてしまうために起こってしまう「よかれと思ってやった悲劇」だと言われているようです。また、昨今は「所有欲求・承認欲求」などに起因した「マウント取り行為」に起因するケースも増えているようで、モノ・所有にまつわる行為にまつわる迷惑・違法行為などが流布されたり賞賛されたりするケースが増えてきたとのことで、界隈と界隈に関わる方々から嫌悪の目で見られているという話。一時期の趣味界隈で多発したこれらの迷惑行為は今や世界規模での「いいね!の迷惑」として認知されているとかそうでないとか。彼らは社会倫理と引き換えに何を得たのか、と。
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社会的な倫理観の屹立というのはどの時代にも一定数存在した諸問題のひとつですが、昨今どうしてここまで過剰に発生するようになったのかといえば、やはり「諸外国からの価値観の流入過多」ではないかと思う次第です。多くの価値観的情報はインターネットを経て共有されることもあり、調べようと思えば検索ひとつで多様な情報が検索にヒットするため、多くの価値観情報を観測することが容易になったことが背景にあると思われます。国内の価値観でもそこそこの件数が社会的な対立構造になっているというのに国内常識の範疇を超えた海外の常識が国内で通用するはずも無く、またインバウンド社会化した昨今は海外渡航者から持ち込まれるケースも多数になり、こういった価値観による衝突は昨今では日常茶飯事に至るようになってしまいました。それによって昨今は「価値観戦争」ともいえる過激な論争がSNSでは多く観測されるようになってしまいました。少なくとも、カメラを回せば迷惑行為の一つや二つが画角内に入ってしまう程度には日常化してしまったという話。
「迷惑系」のルーツはどこか
昨今悪い意味で共有されるようになった「迷惑系」のカテゴリは、諸説は多数あるが「YouTube収益化に伴う動画発信」がきっかけになっていると言われている。「迷惑系YouTuber」が台頭するに至っていることからも「YouTube発祥説」が有力視されており、その多くが動画で多方面のSNSでシェアされている。多くの良識ある動画発信者からは「カネのために迷惑行為に及んで、迷惑料をYouTubeから巻き上げている」などと揶揄され蔑視の対象になっていると言われているが、そもそも迷惑行為に抵抗の無い彼らにその自浄作用はまったくと言っていいほど効果が無いとも言われている。また、多様文化圏の人々による「自分たちの国ではこうだから」という理由での「慣習の押しつけ」を発信するケースも増えており、文化・思想の相違から結果として「迷惑系認定される」ケースも相次いでいる。日本に於ける「文化相違に於ける価値観の押しつけ系迷惑行為発信」の話題は枚挙に暇がない。
思想の多くは幼少期~思春期くらいの基礎的教育に終始しており、おおよそ成人するまでの経験や体験の類と生活圏に於ける教育によって基礎が形成されると言われています。それくらい幼少期の教育や体験は人生を決定づけるレベルで重要なのですが、昨今の教育の多くは形骸化・体裁崩壊に至っているという話であり、「教科書の丸暗記レベルの知識と体験」くらいしか伴っていないという話。それを教育と呼べるかといえば遠く及ばないレベルなのですが、そもそも教育の定義から色々と狂い散らかしており、地域社会も教育に関与をしないレベルになってしまっており、「教育のように見える何かを『決まり事だから』というレベルでのみ教えている」という話になっているのはもう「教育終了のお知らせ」なのかもしれないと思っている次第です。教員不足を嘆く以前に「教育は教員だけのものでは無い」という認識をもう少し持ってほしいのですが、プライバシー保護を名目に地域社会を閉鎖空間に追い込んだ社会背景からも「教育復古は絶望的」なのかもしれず、これから極度の「教育格差」が生まれていく未来が容易に想像できてしまいます。
「社会の理不尽化」がこれからも加速度的に拡大していく過程において、子供社会・高齢社会もまた「理不尽化」が加速していくものと推測されます。そもそも価値や倫理の基準の教育の皆無な社会に育った子供が次世代のモンスター家族を作っていくという構図はもはや矯正不可能な状況に陥っており、その兆候が始まった平成初期からすでに四半世紀以上が経過しているという状況からも「理性的社会の構築」には恐ろしく長い時間と労力が必要なものと思われる次第です。暴力・恐喝・略奪や蹂躙の類は世代に関係なく蔓延するようになり、銃社会の海外とは別のベクトルでの「生存戦略について」が叫ばれるようになるものと思われますが、これらはすでに海外からの移民流入によって深刻な社会問題化になっており、治安良好と思われた日本の地域社会を基礎から破壊するレベルの問題にまで発展しているとのこと。そして、深刻度が法外になりつつある昨今、もはや国家や地域・教育機関だけでは対応不可能になっていることも加味して考える必要が出てきました。約半世紀に及ぶ「臭いものに蓋をした結果」から生成された「名状しがたい混沌」がいつ解放されたかは知る由も無いですが。
「考えない人たち」の台頭について
Z世代とバブル期を体験した高齢世代とは対立関係になると定期的に言われてきたが、そもそも対立しない世代なんてものは無く、同世代でも価値観の違いなどで普通に対立関係は築かれていた。ただ、無知や無配慮などに起因する思考停止型の発言観測数は年々増加しており、その根底にあるのは「価値観に伴う感情的発言」である場合が多くなっている。また、情報社会特有の「発言に対する責任の所在」について軽視や無視を決め込むケースも多く、そもそも「情報倫理の欠如」や「人道・倫理に関する感覚欠如」も多く見られる傾向にある。また、価値観のアップデートの周期は年々短くなっており、その価値観変化に伴う同世代間・同好の士の間でも対立関係は形成されているという実情がある。しかし、多様なデータから俯瞰すると「基礎となる価値観の相違」がトリガーになっての対立関係の形成が、多様化の時代背景に沿って量産されたというのが一番適切では無いかと指摘するケースが多い。
これから多くの人が「AIとの共存」について考えることを強いられる時代になると言われているようですが、そもそも「AI依存の弊害」についてどれほど考えたのかは気になるところです。この前世代である「検索エンジン依存」でも充分すぎる思考停止のシーンを目撃してきたわけですが、これからさらに思考停止のシーンを見る機会が増えるのかと思うと憂鬱極まりない気持ちになります。民主主義の基礎である「大多数の賛同」と、それらの決定権を行使する「選ばれた決定者」には一定量の乖離があり、「国民の民意と政治政党の解釈の不一致」という形で差異があるという認知が広まっていますが、私たちが政治的な分野に積極的に感知・関与すればあと数年その周期は早まった可能性があります。疑問を抱いた時点で何かしらの行動を起こさなければ、実害を被ってからでは手遅れという現在の実情を見る必要は無かったかもしれません。情報社会化する家庭で個人と地域社会の分断が進んでいったわけですが、「孤立とは無関心になること」であり「無関心とは社会活動参加の放棄でもある」ことはもっと知られてほしいと願うばかりです。行動を起こすにはあまりにも周回遅れになってしまった感が否めませんが。
今は「教育者不在の時代」などと言われているようです。これから倫理ある教育者を育成し、彼らが教育現場に立ち、それらを世代レベルで浸透させるには何十年の時間がかかるかはわかりません。今は彼らの育成にすらケチをつける人々の方が多い時代になってしまい、未来の展望は真っ暗になってしまったともいえます。「悪貨は良貨を駆逐する」ではないですが、「法規と倫理を重んじる良識人」になるよりも「快楽と犯罪という麻薬に染まった悪人」になる方がはるかに早く、そして簡単です。少なくとも私たち世代がその「倫理復古」の世界線を見ることはないのでしょうが、子世代・孫世代にそれらの可能性を見いだせる社会になるように楔を打ち込んでいく必要はあると思います。
「未来・次世代へのツケ」とは「国家財政の赤字ではなどではなかった」のは間違いないです。人望や倫理、未来的思考と行動は円建てでもドル建てでも買えない「教育の産物」であり、カネや投資でなく学習と行動で得るものだったという話。金の卵を産む鶏を安く買い叩いた上で多くを屠殺した令和の時代に何が残っているかはわかりませんが、少なくともかつての人々が抱いた「理想の21世紀」のためにも、これからはAIに負けることなく学び、それに基づいた行動を起こしていかねばと思う次第です。AIは情報を提供しても、社会貢献もインフラ維持もやってはくれない訳だし。



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