世の中にどのくらいの常識概念が存在するかは知る由も無いけれど、人の数だけの常識や尺度は存在するというのはおおよそ間違ってないハズであり、多数決を採る昨今の社会尺度から「大多数派が占める意見は常識である」という思考はそもそも一定量は疑って良いという話。地球温暖化の原因が二酸化炭素だけの所為ではないだろうし、クリーンエネルギーと呼ばれてきた仕組みやエネルギー源が必ずしも効率の良いエネルギーシステムではなかったりというのは過去に経験してきたであろう轍であり、それらを信じて疑わなくなってしまったことを疑うべきではないかという提言であり、10年後にその常識は覆させられているかもしれないという話。そもそも世界規模の常識というものが曖昧な尺度のものなので、私たちは日々目にしているものとそれ以外の常識とを常に天秤に掛けつつ思考をする必要があると考えています。
世界には「馬鹿と揶揄される人々」が一定数存在すると云われていますが、その「馬鹿を揶揄する人々」も一定数居るという話。そもそもどちらが正しいかという説は確立がしにくいものであり、トコロ変われば常識が変わるくらい不安定なものであることを認識しないといけないように思います。価値観や考え方、常識の基準からモノの価値に至るまで「基準は一定ではない」という話であり、そもそも世界レベルの混乱は「ある国々が自国の基準でもって侵略してきた」からこそ起きたプロセスだったというのは…ある意味すごく的を射ているという話。地理や歴史を紐解けばおおよそ戦争の歴史を紐解くことになるし、その根底には価値観の押しつけという行動プロセスがあったという話であり、その価値はある一瞬でもって逆方向に傾くこともあるという話。はてさて、今の世界を動かしている指導者たちはどっちの人々なのか…興味深く俯瞰している次第です。
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そもそも「馬鹿とは何を基準に推し量ったものか」を知らない人が多いのではないかと思う昨今ですが、知識量の優劣が人生を優位に進める材料になったとして彼らを恣意的に蔑視する理由にはならないだろうし、彼らの中の思想や信念においては間違ってないハズのものがその行動や行為である…とすれば、そもそも「馬鹿という基準そのものが馬鹿げている」という話にまですっ飛んでしまうという話でもあり。何故、人々がそうまでして優劣を探し出し恣意的に攻撃する材料にしたがるかという話ですが、それは縄張りを守るための潜在的な本能的行為なのかもしれませんが…何故それを知的生命体たる人間は横柄にそれらの差異をひけらかすのかという矛盾が出てくるのですが、彼らはその問いに対して何一つ答えてくれません。それだけは歴史の多くのページで有耶無耶にされてきたという経緯があったりして、人間の闇の部分を垣間見る材料になっているように思います。
「馬鹿は伝播する」というのはおおよそ間違ってない話であり、馬鹿を蔑視する人間はだいたい馬鹿であるという話であり、巡り巡って「馬鹿は馬鹿を探して馬鹿狩りをする」という構図に辿り着くというのが持論です。たとえその愚行に至る人々が絶対的な馬鹿だったとしても、それを明確な攻撃的意図でもって馬鹿と蔑視するのはそもそも話のレベルが違うし、紳士淑女の嗜みに値するのかどうかという話であり…結局は同族嫌悪的な「馬鹿が馬鹿を攻撃する」という話になるというのを提言したい次第です。どういう基準でもって馬鹿を定義するかというのは非常に難しいのですが、おおよそ云われているのは「声がデカくて乱暴で、横柄な態度で妙にずる賢い、自身の利のためには残虐にもなれる人間」ではないかと思っています。さじ加減の難しい判断どころですが、得てして「理性的ではない人々」が該当するものと考えています。
彼らに関わらず、関わられても刺激せず…というのは難しいものであり、昨今の時代背景は極度に情報化された情報共有社会に晒されようならばどうなるかという話であり、世の中は緩やかな監視社会を構築していると云われています。そこに馬鹿を晒すような行為を証明する材料を提示したらどうなるか…その先を予測できない人が馬鹿の認定をされ、類が友を呼ぶように彼らを吊し上げたがる馬鹿が四方八方から現れ、「アイツは馬鹿だ!」と声高らかに攻撃し合うという構図を作る…その空間で「声を上げた人間のだいたいが馬鹿である」という話であり、昨今はその「スルースキルの重要性が問われる」という良くわからない事態が定期的にあちこちで発生していると聞きます。知的で思慮深いことが求められる反面でこういった行為をどう捉えているのかというのは価値観の違いに由来する部分なのでなんとも言えませんが、世の中には「注目願望でもって人生を破綻させた事例が多数ある」という事を認識しないと生きていけない世界なので…。
日本のことわざに「見ざる・言わざる・聞かざる」ということわざがありますが、ある意味それは「馬鹿に対する対処法の最たるモノ」と言えるかもしれません。運悪く彼らが接触してきたら「その事実を慎ましやかにかわす」うえで「その事実は特に口にしない」ようにし、なおかつ「彼らの言葉はささやき程度に聞き流す心の余裕」でもって対応する…とでも言いましょうか。今ここに書き連ねている行為は本当にひどい行為の話なのですが、彼らの荒っぽい言動に振り回されることそのものが「馬鹿の伝播」であり、触れてはならない部分だと思う次第です。この記事を書いている私自身「何を言っているのかわからない」感覚を覚えていますが、翻弄されてしまうことが馬鹿への特急券であることは間違い無いと思っています。
ただ、彼らを一緒くたに「馬鹿だから」と放置するのも危険な判断でもあったりするので…尺度として扱うことが難しいです。何故なら、常識は塗り替えられてしまうモノでもあり、それらを愚行と信じていた時代が終わってしまう可能性もまた然りなので。どこまでを反面教師として意識するかのさじ加減は難しいなんてものではありませんが、常識はいち基準であり大多数派の基準のひとつという認識が必要なのかもしれません。地球温暖化の原因のひとつが二酸化炭素と言われていますが「理由のひとつでしかない」ことや「二酸化炭素発生抑止のための原発の存在」など…ここ十数年で基幹となった常識の一部が塗り替えられたということも記憶にとどめなくてはなりません。
人類の社会が常に闘争を求めているあたりに人間の愚性を見いだし、「私たちはそもそも馬鹿であり、紳士淑女としてそれは秘密にする」くらいの感覚で生きていくのが良いのかもしれません。世界の大多数が馬鹿だからこそこういった根本的な問題が解決出来ずにいるという話であり、「私って、ホント馬鹿」くらいの気概が敢えて必要なのかもしれません。「馬鹿にならないために馬鹿を吊す馬鹿に関わらない」とはどんなトンチ話かという話ですが…間違いなく「世界は馬鹿になってきている」という話。知的生命体が退行するなんてどんな笑い話のネタなのかと小一時間問い詰めたい話。


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