優しくなれない人々へ思う

時事・事象・社会現象

インターネットに於ける自己発信が日常の一部になってきた昨今は「心の闇を垣間見る機会」が増えてしまい、それが巡り巡って自分自身の闇を広げてしまうという事案について考える機会を増やしてしまっています。人の精神世界が二面性による矛盾をはらんだ構造になっているが故の難題と云う話ですが、明るい世界の数倍くらいの件数の闇が深い事案に遭遇してしまうというのは如何なものかという話であり、割と精神的な療養策のひとつに「SNSとの距離置き」が指定されるのもうなずけてしまいます。人の心の闇とは深淵の底よりも暗い何かなのかという話であり、陰鬱にしかならないという話。

こういうときに垣間見えてしまうのが人間の攻撃的な部分と言われているようですが、それによって暴かれるのは心の闇の部分という話らしく、その行動ひとつひとつにその人の暗黒面が表れるという話。その攻撃性やその対象・それに至る行為ひとつひとつには相応に人の深層心理があるといわれているようで、それらの多くが人の暗黒面に訴える何かを持っているという話…とどのつまりは「人として耐えがたい精神的ダメージを被る」というものらしく、如何なる理由があってもインターネット界隈に行くんじゃないという理由になっているようですが。それほどまでに人間の内面というのは陰鬱な側面を内包しており、きっかけひとつで名状しがたい悪魔にもなり得るという話は…なかなか真っ黒な話だと思った次第です。

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人をそこまで精神的に破壊するメカニズムがもっとも身近なSNSであるというのは興味深くもあり業が深い話でもあり…なのですが、昨今の社会が闇堕ちしているという話の裏に「裏社会的な精神心理がある」という話は結構耳にする話であり、いじめがなくならない理由だったりハラスメントが延々となくならずに存在するという話あたりにその闇を感じさせる一端を垣間見る機会があるように思います。もともと人間の深層心理に加虐的思考があるという考えが基幹になっているという話らしいですが、匿名化しているネット社会によって暗にその加虐思考が拡大しているとか何とかで…村八分ならぬ「SNS八分」とかそういう温床になっているという話はかなり前からも聞き及んでいたりする話題だったりします。つまり「人間は元来悪事を働くことが好きである」という話や考え方であり、一種の快楽思考のひとつらしいのですが…。

歴史を紐解く過程で色々な分野の人的歴史があるのですが、古来より脈々と正統進化を遂げている分野のひとつに「拷問の歴史」というものがあったりします。人を支配するために人に恐怖を植え付けるために支配階級者たちが行った加虐的行為の歴史ですが、これがある意味もっとも古くから形としての現存をしており、かつかなりの古来時代からの記録が残っている分野でもあり…人の精神論に於ける重苦しい何かを感じさせるものとなっています。支配者が支配をより強固なモノにするためのひとつの「見せしめ」であったとされる拷問ですが、おおよそ現代に至るまで新旧を問わない拷問は今でも世界のどこかで現存し活用されているというデータもあるらしく、人間の残虐性を垣間見るソースとして今なお語り草として話題になります。人は「人間らしさを主張し、共存のために互いに知恵を出し合う協調的な生物である」という仮説を木っ端微塵に破壊するような「人間性を破壊し、決定的差別を肯定するための見せしめ行為」の歴史は実は恐ろしいほど奥が深い黒歴史として今なお残っていると言われています。

それが役割分担などに於ける「共存のための差異的な差別」であるならまだ仮説は成立するかと思われるのですが、「強制のための恣意的な差別」として進化を遂げた拷問の歴史は今なお多くの「精神的差別」として進化を続けており、昨今は表現や波及方法を変えてまだ現存していると言われています。日本では昨今「ハラスメント」として表現されるいわゆる「いじめ問題」が根強い差別として定着し続けているという側面を持っています。ここで定義できるだろう「いじめの定義」ですが、明らかな差別思想や蔑視思想の正当化のための強要正当化行為と定義できると思われます。明確な定義は難しいとされる部分ですが、その差別の先にある「加虐的嗜好を加味した差別や攻撃行為」がおおよその「いじめの定義」になると思います。知るか知らざるかはさておきとして、昨今はSNSに端を発する言葉の暴力からネットワークを活用した暴力行為に至るまでの多様ないじめの実態があり、その多くは黙認もしくは隠蔽され公になるケースは少ないと言われています。

「人は人とわかり合える」と教育された反面で「あれは絶対に許されない」という教育はどこの世界のどの界隈にもあると思われます。「犯罪と法の精神」などの相対する思想はだいたいの世界に存在する矛盾をはらんだ存在であり、それについて多くを学ぶことは将来的な法治社会の基礎となるから重要である…少なくともそう教育課程で学んできたのですが、実際には思想差別や嫌悪差別の類は幼少の頃から体験する確率の高い問題であり、時に人命を奪うほどの事態に発展するケースも少なくないと言われています。現実にあるのはその事実の隠蔽と責任のなすりあいという法の精神とはかけ離れた現実であり、その事態の問題性はSNSを通じてより隠蔽しやすく陰湿化しやすいものへと変貌していることでしょうか。道徳的教育の重要性が説かれて止まない昨今ですが道徳性ある精神環境はおおよそ破壊されたとも言われており、人は法の精神よりも加虐的嗜好を選んでいるとまで揶揄される時代になったとも言われているとか。近代は人間の叡智が…と言われたかつての思いと正反対に、昨今は「目には目を、歯には歯を。非人道的犯罪に非人道的鉄槌を」という思想が増えてきたという戯れ言は否定できないほどにSNSで囁かれており、信じがたい事件と極刑を求める声が定期的に湧き上がってくるという話。

人は優しくなれない、優しさには何か対価要求がある。無償の愛があるともいわれた人々の心の裏に、悪魔に法外額で魂を売るような事案もあるという昨今のご時世。信じることが罪になる時代が来るかもしれないという妄言が的を射た発言であるというのであれば、人は生涯「孤独という十字架以外を愛せない存在」になるかもしれません。

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