ソーシャルメディア・ディスタンス

時事・事象・社会現象

このコロナ禍のご時世に於いて「距離を取ることの重要性」を説かれるに至った次第ですが、本当に「距離を置くべきもの」について議論を交わすことになるとは予想だにしなかったりするわけで、その「距離を置く対象」が「そもそもどこに向かったものだったのか」という話がここしばらくで急激に拡大したと聞きます。虚偽に満ちたものや悪意に満ちたものはもちろんのこと、カジュアルに行われる人格攻撃や恣意的に行われる情報工作など、その範囲は知られざる部分も含めて非常に広いものだという認識を持つに至った次第であり、その発生源のかなりがソーシャルメディアだったという話からも「渦中にありきはソーシャルメディア」なのではないかという話になりつつあり、本格的な「ソーシャルメディアとのつきあい方の考えについて」を議論する必要がありそうになってきました。そんな今このときに至っても、思慮も微塵もない言葉による凶行が行われているという話であり、上は国際情勢から下は子供の戯れ言に至るまで「言葉による暴力行為」が展開されているとかそういう話のようです。

ソーシャルメディアが発言力を持つに至った昨今。少年少女から大統領に至るまでが参加するソーシャルメディアの会話というものはかなり混沌を極めており、それら発言はその意図を考慮されずに今日この時も発信され続けています。それが攻撃的意図や恣意的混乱の誘発であったり、あまつさえ個人の人格攻撃や排除思考の発言であっても、これらソーシャルメディアは「入力されたとおりの言葉」を発信し続けています。それによってどんな瑕疵があったとしても、その発言によって何かしらの惨劇があったとしても、その発言はおおよそ撤回されることなく発信を続けています。言葉による悲劇が繰り返されるという認識がようやく広まってきたといわれているようですが、今日もどこかでこういった恣意的発言が発信されたり、それによって傷付けられた人が訴訟手続きを行ったりといった「言葉に起因する諸問題」が視界に入らないところで広がっており、そろそろ「ソーシャルメディアとの距離感を考え直す時期」に来ているのではないかという議論が再燃してきたとも聞きます。必須情報媒体となりつつあるソーシャルメディアとのつきあい方について何が最適解なのかは、まだ多くは知られていないのかも知れません。

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いつからソーシャルメディアが「密会の空間」になったのかは定かではありませんが、匿名性の皮を被って人格攻撃などを行うといった荒らし行為は以前からありました。しかし、過去からあったからといって肯定して良いものではありませんし、まして公開されたスペースで公然と焚き付けるものでもありません。恣意と誤解によって拡散したこういった荒らし行為の類は昨今では社会問題化もしており、人格攻撃によって発生した名誉毀損などによる訴訟沙汰が昨今では増えてきたといわれていますが、それもまだ氷山の一角であり、水面下に潜むこれら社会問題化したソーシャルメディアの諸問題はこれからもその多くを暴露していくものと推測されます。ソーシャルメディアの暴いてきたものというのが人間性の闇の部分であるとすれば、私たちには刺激の強すぎるショーメディアなのかも知れません。そもそも「ソーシャル=社会性」という言葉のニュアンスも汲み取っていないユーザーの多さを白日の下に晒したわけでして、いつまでもチラシの裏の落書きと思って利用していた人がどれほどをいたかという事実をさらけ出すに至った次第であり、今となっては目も当てられない言葉の混沌を見せつけられた気分になります。

そもそも、「言葉の重さ」を認識しない人々がこれほどまでに多かったという事実を垣間見るきっかけとなったソーシャルメディアは、現代に於けるある種の劇薬なのかもしれません。オールドメディアの情報のかなり多くが恣意的歪曲情報だったという事実関係を暴いたのがソーシャルメディアだったことからもソーシャルメディアはその信用性を集め利用者層を拡大しましたが、そこに恣意的利用者層が参加することで、ソーシャルメディアの信用性は混沌を極める結果となってしまいました。また、ソーシャルメディアが日常化することによって参加者層が急激に肥大したことも、混乱を誘発する確率を高めたとも言われています。結果として「煽動される人口の激増」と「恣意情報の発信増加」、ひいては「人的混乱の誘発」の拡大などの情報の混沌化を招き、ソーシャルメディアそのものが「良くわからない情報群の掃き溜め」になりつつあるという話。そして、今となっては億単位の人が参加するソーシャルメディアで「注目願望を満たすことがステータス化する」という良くわからない価値観の拡大で「迷惑行為による炎上型注目行為」が何故か一部で脚光を浴びるという派生型の社会問題などが発生しており、結果として「身近に存在する危険地域」がソーシャルメディアになりつつあるという話に転化しつつあります。そういった危険空間になりつつあるソーシャルメディアを「日常必須メディア」にのし上げて良いのかどうかという問題もはらみつつ、私たちは日常的にこれらメディアを利用しているというのが現在の実情だったりします。

多くのソーシャルメディアではその可能性が模索され、社会的価値を見いだすような利用方法が日々模索され利用されるという状況があります。ただ、そこに社会性が追求されたところでこれらソーシャルメディアは「個企業による情報サービスのひとつ」でしかなく、結果としてスポンサー介入などの資金的な流動はやはり発生します。プロモーション記事の投入には悲喜こもごもな意見もありますが、企業体がサービスを維持するためには必要な選択のひとつでもあり、社会性や何やらを図る上ではデリケートな問題をもはらんでいます。ただ、非常に多くのユーザーの巣窟となってしまった昨今のソーシャルメディアは「社会的な空間か?」という疑問を払拭できるような秩序有る空間とはお世辞にも言い難い空間だと言わざるを得ず、私たち個々のユーザーの知識と経験でもって情報の選別をしながら利用するしかないという話に帰結します。この空間の情報は「鵜呑みするなかれ」という話なのですが、謎の信用を持って恣意的な情報に流される人はやはり一定数存在します。思考をやめてしまった利用方法は確実に危険であり、ひいてはそこから反社会行為や犯罪幇助の類に手を染めてしまう羽目になる人は一定数発生し続けてしまうのではないかという話です。

社会的と称された「ソーシャルメディア」が描き出す2020年の「社会的な出来事」が昨今のツイッターなどで描き出されていますが、その光景がどれほど社会的で画期的であるかは推して知るべしといったところでしょう。思想としては「ユートピアとディストピアは紙一重」であり、多くの人が描いたであろう幻想と現実のジレンマがそこに有るものと思われる次第です。明るいニュースと暗いニュース、希望に満ちた話題と絶望しかない話題のどちらが多いかを鑑みれば、その社会性あるメディアが「信用できるか疑わしいか」が見えるかもしれません。今となっては日々使わざるを得なくなってしまった巨大化したソーシャルメディア、そのメディアとの「信用の距離感」が試されているのかもしれません。

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