性的なコンテンツに対しての終わりなき議論というものは昨今も引き続き無限ループのように続いているのですが、このテーマに沿った議論というものはそもそも「解決の糸口のない議論」であり、三大欲求たる性欲に対して規制を敷くか否かの話でしかなく根本的解決については論議のしようもない本能的欲求の話であるのですが、ある一定界隈の自己満足のために幾重にもガイドラインが敷かれるという良くわからない状況が形成されている昨今。そもそも三大欲求たる食欲や睡眠欲求にならぶ本能的欲求のひとつである性欲を「特殊かつ下衆な慣習」と嫌悪するのはいささか問題があるのではないかという話であり、そもそもそれは法的規制理論によって解決するのかどうかという話であり、おそらくは永遠に解決はしないであろうという話。
紳士淑女としてこれらについての理論について語る上では「オブラートに包むこと」が嗜みとされ、暗黙のルールともされているわけですが、昨今のそれに対する議論のやり方というのが非常に直球かつ攻撃的な方法で成されている現状があり、おおよそ論議とは言い難い様相を呈しているその議論界隈はもはや「難癖をつける様子そのもの」であり、時代が変わっても人間の本質がおおよそ古代の時代から全然変わってない感が感じられる次第であったりします。そもそもこの問題に根本的解決策があるのかどうかという話ですが、この界隈に登場する理屈の多くが辻褄の合わない理屈の巣窟であり主観の満足くらいのものでしかなくて、この問題はおそらく永遠に棚上げされる状況が想像出来てしまうのですが、それに対しての回答が気になるところ。
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何故、性的な欲求が三大欲求でありながら忌避され嫌悪され駆逐対象とされるのか、という話。確かに表向きにダイレクトなこの手の話題は忌避され嫌悪される部分であり非常にデリケートな部分の話であるのですが、そもそも種が生きるために備わった本能的欲求を全面否定される筋合いは無く、これに関しては相応に付き合っていくしかない理解の必要な本能なのですが、何故か一部の界隈の人たちから激しく嫌悪され駆逐対象に指定されているこの本能はそもそもどうあるべきなのか。性欲無き社会は健全なのか、それはそもそも人間社会なのかという話であり、ある種の暴論であるその理論はそもそもどうやって扱われるべきなのか、という話。
性的認知と性教育の乖離の諸問題
個人差があるとはいえ、「異性を認知する」タイミングから「性欲との葛藤がはじまる」といわれており、性的認知はだいたい小学生高学年くらいのタイミングで持つようになるといわれている。身体的な変化を気にしたり、自身の外的なイメージを気にするようになるのは性欲の初期衝動ともいわれている。それに対して性的な教育および認知活動はほとんど無いのが実情であり、それでいて性表現や性的事象に関しては「蓋をする傾向が強い」とされている。また、性的な感情やそれに付帯する行為を「下劣なもの」と蔑視する傾向も今なお強く、性的欲求と「向き合う機会」よりも「抑圧される機会」の方が圧倒的に多いのも、性に対する「幻想と現実の乖離」を推し進める結果の遠因になっているという意見もある。
本能と付き合うためにはやはり知識を得る以外に根本的解決は無く、それを踏まえての理性でもって制御する。それは睡眠しかりで食欲もしかりのはずなのですが、性欲に対しては異様なまでに嫌悪が伴うケースがあり、嫌悪が故に忌避し封鎖しようとする勢力によって排除的に扱われることが度々あります。そもそもそれは解決策なのかどうか。性的知識の封鎖が性欲の抑制になるかと言えばそれはまったく伴うものの無いものであり、むしろ無知故の暴走が伴う危険性の高い行為なのですが、おおよそそのことに触れるような発言は皆無であり、暴走の終着駅である性犯罪や性的搾取にばかりスポットを挙げ怒声を挙げるというケースが多く見られるこの界隈に「冷静な議論」があるほうがむしろレアケースという皮肉な現実があり、やっぱりこの問題は永遠に解決することはないだろうなという気持ちで悶々とすることになってしまいます。
そもそも私たちは性行為によって生を授かった人間であり、オトコとオンナというミステリーで隔てられたセンシティブな生命体であるわけで。男にとって女は別世界のミステリーであり、その逆もしかりの大きくも小さな幻想世界であるわけで。それは突き詰めていけば「生きることの営みそのもの」であり、本来はもっと動物的な衝動だったはずのものであり、協調を求むる社会に於いては一定の抑圧こそ求められるものの全否定されるべき感情ではなく、もっと学び知り「つきあっていくもの」であるはずだったのですが。「性欲は何故悪者にされてしまったのか」という疑念はつきません。
性的搾取が叫ばれる時代背景と現実問題
男女平等という思想が持ち込まれて社会的価値観が変動するようになったものの、未だに男女間に於ける就業の差異は埋まっていないといわれている。また、生物学的に男女の「活動ピーク時期」は明確に差異があるといわれており、女性は10代~20代が、男性は20代~40代がピーク期になるとされている。いわゆる「女性の出産周期」と「男性の家族維持活動」の周期がそれぞれの生物的な「活動ピーク時期」といわれている。社会背景からのこれらに対する異論は多くあるが、生物学的には10代~20代の女性が「性的アプローチをする」ことは自然な部分であり、20代後半の男性が「家族を維持するために活動的になる」という後付けな意見にも合理性が出てくる側面もある。逆に「若年女性が性的である」と唱える人々の「具体的な解決策」のような意見や思想は非現実的なものや乖離した内容であることが多いといわれており、現在に至るまで論争と弊害をもたらした以外に何もないとまで言われている。
「センシティブな話題に対しての取扱いは慎重であるべきである」というのは納得の出来る話であるものの、慎重な扱いを求める側の「話題の取扱い方」は乱雑そのものであり、矛盾を伴う部分でもあるのですが。彼らの中には「暴論を正義と位置付ける」人々がいたり「性欲は下劣と決めつける」風潮があったりと議論の余地のない人たちが少なからずいて、それは相応にして別次元の問題にまで発展しているという現状があり、それは過去から延々と脈々と受け継がれてきている暗黒面でもあったりするのですが、人類史上「性的な問題」に「規制による解決策」は今のところ提示された事例は無く、多くはただの抑圧的行為でしか無かったという話。本当の紳士淑女であればそこに妙案とも呼べる対話施策や学習要項などを盛り込めたのではないかと思う次第ですが、21世紀たる現在も性的欲求は忌避対象であり、規制による抑圧こそが解決策と信じられている事情を抱えているわけで、そろそろ「セッ○スを規制するべきではないか」という極論が定期的に上がってくる頃では無いかと戦々恐々としているところです。
紳士たるもの、淑女たるもの。もっと知的で理性的であると思っていた時期がありましたが、思っていたよりも野蛮なケモノの類だったようで「健全とは何だったのか」という言葉にならない気持ちに苛まれる日々はまだまだ果てしなく続いていきそうなそんな予感がします。そのうち性的感情を伴う恋愛行為も、忌避され厄介ものにされ、時には犯罪の温床とまで揶揄される時代が訪れ、恋愛行為そのものが絶滅危惧種になる日も来るかもしれませんが、それはまた別の次元の妄想話…であって欲しい話。ラブコメが許されてラッキースケベが許されない世界って何だろうという話でもあり、そもそも「性への理解」とは何だったのかと悩み続ける日々は今後もまだまだ続きそうだったりします。



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