人生の未来を占うものは何だかんだで出会いであり、生きる過程でどんな出会いに遭遇したかによって人生観のベクトルが変わってくるという話であり、人生というキャンバスは出会いによって多彩に彩られたマーブリングであるというお話。「人と人が支え合って人間を形成している」のであれば間違いなく出会いというフラグは人生は冒険ゲームのクエストカードであり、さながら「毎日ガチャを回す人生」が昨今の人生図ではないかという不思議な話。出会いにまつわる要素のすべて、全部人生のガチャ。
個人の存在は、言うならばグラスいっぱいに注がれた水。そこに出会いという絵の具が注がれたり、時にはグラスがバケツになったりタライになったりというのがおおよそ人生ではないか、と思うようになっています。どこかの有名ホストが「海のような心の余裕を持とう」なんて言ったことがあるらしいですが、それはおおよそ的を射た例えであり、常にいっぱいに注がれた水の量が増えるか減るかを「余裕の尺度」に見立てれば非常にわかりやすい表現ではないかと思う次第です。ただし、それは確率依存型の運ゲー要素なのですが、それはまあ。
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グラス一杯の水に一滴の絵の具を垂らしたら水はその色に染まりきってしまう、バケツ一杯の水だったら…という例えはとても興味深く聞いた話でもあります。人の属性をどんな色の絵の具で例えるかは難しいですが、おおよそそんな絵の具が複雑に混ざり合った結果辿り着くのはやはり黒かマーブルだと思う次第です。ちなみに、実際の絵の具を大量に混ぜ合った結果はだいたい黒に近付いていくという話であり、これをすべての事案と人生観に遭わせることは困難ではありますが、イメージを説明するくらいには充分な表現ではないかと思います。ちなみに、キャンバスに例えられるものは「未来予想図」であり、その時の自分の色でもって描かれた絵のようなものに例えられるそうです。深い。
「絵の具の例え」と「水の透明度」による「人格の行方」
色の種類を「性格・人格」に当てはめた例え話で、透明な水の注がれたグラスにどんな色の絵の具を混ぜていくかで「人生の行方を占う」という内容のもの。出会いや出来事などが「絵の具」で、現在を生きる自分自身の心や人生が「グラスの水」という例えで、透明な水に色が注がれていくのが「人生の状態」とされ、様々な色で生きている環境を表現する。多くの絵の具が混ざればその透明度は下がっていき、過度に多数の色を混ぜ合わせれば次第に濁った色へと変化する。多くの場合「善意=白」や「悪意=黒」などの解りやすい色で表現される。この例え話の仕掛けには「染まった水は二度と透明にはならない」という情報が含まれており、幼少期の体験などが「水に染まりやすい状態」であることから、心理的な状況の分析に使われることもある。
ただ、馴染みの薄くなってきた絵の具が身近になくなってきた昨今、この表現は「ガチャ(くじ引き)」に置き換えられてきたという話で表現されるようになり、そちらの方が現代的表現として適しているという話らしいですが。これらを総合して今のスマホゲーム的な表現をつかって説明するなら「出会いによって変化した個人属性」によって「ガチャのレアドロップ率が変化する」という「人生ガチャの連続が人生」と説明することになりそうです。未来予想が困難と言われる昨今の社会情勢を反映した実に的確でエグい表現ですが、それはおおよそ的中している説明文だったりして業の深さのようなものを感じさせます。
おそらくは人生で何千~何万回ものガチャを引くのが人生で、人生を左右する運命も「ガチャ頼み」であり、「人生の分岐点は全部運ゲー」という話と「努力はすべて乱数調整」という話は、表現する言葉こそアレな感じですが、実際の人生は本当にそんな感じになってきているため人生のハードルの高さを感じさせる的確な単語になりつつあります。世界の指導者が悪い方のレアドロップを引き続けるという世界情勢とか、トラップカードを引き続ける企業人事や国内経済事情があまりにも的確にエグいドロップ率を突破し続けている世界情勢をガチャで表現するのはいささか恐怖を増幅させるような説得力があり、つらくなってきます。間違い無くこの時間軸に於いて世界規模での「人生はクソゲー」が定説になりつつあり、世界は「混乱の責任というジョーカー」を賭けたババ抜きを繰り返しているといったところ。今の世界情勢はババ抜きで言うところの「残り僅かなカードでの戦略状態」であり、最後の一枚たるジョーカーが誰の手に渡るかのせめぎ合いまであと僅かといった状況ではないかという推測です。
国境が意味する「世界情勢ガチャ」という実情
「国境がそこにある」というのは多くの理由が意図するせずに関係なく合理性や意味合いがあるという話で、多くは地理的な理由であるが、地理的に往来困難な条件などによって思想や文化が国境で分断されるというケースがあり、それらが「必然的に国境として機能している」というのが昨今の実情である。かつては「地域に根ざした宗教や文化」が存在し、それらが「往来出来る範囲内で普及していた」が、その国境の範囲が拡大していく過程で「越境状態」になり、相違した文化圏での抗争が発生するようになったのが「戦争」と称されるようになり、以後「価値観の相違」による宗教戦争や侵略戦争などの要因になっている。特に宗教の教義に端を発する価値観の相違に関しては、現在も譲歩不能な状態が続いている。
「無限ガチャ地獄」たる人生というクエストは昨今ハードモードを極めており、絶望的な確率のレアドロップを賭けて日々ガチャを回す日々を送っている人は多いと予想されています。不毛なガチャ戦線はもはやギャンブル性の高いリスキー人生の縮図と化し、必ず胴元が儲かる仕組みになっているカジノゲームの様相になりつつあるという話で、その上の方では「胴元のイス取り争い」が続いているとかそうでないとか。大派遣時代のピンハネ利益が社会ガチャの収益であるのであれば、そこでもまた不毛なガチャ戦線が巡っているということであり、結局上から下までざわざわするドス黒いガチャに支配される社会がすでに完成形になっているのかもしれません。何故ギャンブルに依存するかというメカニズムの如く、私たちはガチャを回さなくては生きられない社会に成り果てている世界に私たちは放り出されたのかもしれません。死ぬまでガチャに振り回される「運に身を任せたデスゲーム」こそが現代社会であり、私たちはその縮図をゲームとして嗜み、その感覚でもって人生のガチャに挑み続けているという下手なホラーゲームよりもずっとダークネスな世界がそこにあるようにも思えます。
ただ、生まれた瞬間に回すガチャこそが人生最大の運ゲーというのが引っかかる気がしますが。
結局人生はギャンブルであり、運ゲー要素たるガチャから逃げることは難しいという話であり、生き残るためには「人生の乱数調整」を取得する必要があるという話で、多くが運ゲーで語られてしまう昨今の時代背景ですが、富も運も循環するものなのでいつかは運の巡る時があるとも言われています。その幸運要素に出会えるかどうかもまたガチャ頼みですが、天文学的なドロップ率でも逆転のカードは含まれているという話でもあるので、私たちは今日も確率主導の「人生というガチャ」を回す訳です。意図したカードを引き当てるために何回のガチャを引く必要があるかというのがアレですが、それでも引くしかないのが人生。多分、晩年の私は死ぬほどガチャ嫌いになっているという未来図しか見えませんが、「人生の最期」であるジョーカーを引くまで人は毎日ガチャを回し続けなくてはならないので、もうガチャはおなかいっぱいという話。



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