棚からぼた餅・雑談から金言

日記・雑記・私的話題

人と接する人々と会話するのはなかなか楽しいもので、昨今は色々なシーンで営業や人事課の人たちとやり取りをする機会が増えました。ここ数年は生産現場というフィールドで仕事をする機会が多かった都合で「おしゃべりに飢えていた」時期がありましたが、会話によって生まれるアイデアやきっかけの類は時にものすごいエネルギー源を発見させるにいたる機会を持ってくることがあります。私はそれを「雑談から金言」と表現することが多いのですが、異業種交流などをやっているとそれを痛感するシーンは結構あり、凝り固まった尺のものさしを変えて俯瞰してみるという思わぬ機転は時にとんでもないアイデアなどとの遭遇を呼び込んできます。

人の数だけ価値観があるなら、人の数だけの価値尺度がある。凝り固まった常識観で測れない尺度があって、見方を変えれば価値は変化する…など。人間の目は私たちが思っているよりも騙されやすく、錯誤や錯覚の類によって見落としているシーンは少なからず結構な数があるというのは漠然としたイメージとしてあるものの明確な認識は難しいものでして。それがビジネスチャンスに転化したり思わぬ事態のトリガーになったり…まあ色々あって「良いイメージばかりではない」ものの、事態を一変させるようなエネルギーある何かに化けるということはあるものだと思った次第です。ぼた餅の代わりに危険物が落ちてくることもありますが、人生の転機というものはおおよそそういうものだと思えば…また人生も刺激的なものになるのかもしれません。

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「人間の目は騙されやすい」というのは、非常に的を射た金言だと思っています。良い意味も悪い意味も含んだ表現ですが、視点が変わればいろいろなものの形状が変わって見える…普段の認識では決して捉えられない形を認識するきっかけとしてはこれだけ的を射た表現は無いのかもしれません。人生が織りなすミュージカルとはおおよそ「狐と狸の化かし合い」といったところなのでしょうが、似て非なる両者の視点にはかなり違うものが映っているものだと思う次第です。つまり、「固定観念は損な観念」であり「目的や感覚によってモノの示す意味合いは変わる」ということ、つまり「誰かの日常は私の非日常」とも置き換えられるわけであり…人の目は万華鏡といったところ。在って無きが如し、とも言えるかもしれません。

人生で営業職や販売職には就きたくないと公言して止まなかった中の人ですが、社会人歴の半分くらいは販売や営業活動補助といった「触れたくない仕事」に触れる機会が多かったですが…それによって「触れなければ見えなかったであろう世界が見えた」のは間違いなかった次第です。それによって後悔する事案もありましたが、人生のスパイス的な意味では良い体験だったのかもしれません。これから役に立つシーンに遭遇するかもしれませんし、その逆のシーンに遭遇する可能性もあるかもしれませんが、人生に於ける「経験の引き出し」は多いに越したことはなく…相応にそれらは何かの役にたったものだと思いたい次第です。損得勘定でそう思いたいというのも然りですが、それによって危機回避が出来ていた可能性というのもあったと思うので。

常識と非常識の天秤なんてものはトコロ変わればなんとやら、郷に入れば郷に従うしか無く常識というモノもまた不確定型という話のようで。こんな言葉遊びのような言葉遣いは、セールストークのセッションで得た語彙力のひとつだったりします。深い意味は無くとも「印象に残る会話のための彩りのようなもの」としてこういう言い回しを好むようになったのはかつて敬遠していた営業職の営業マンが好んでいた手法のひとつで、「難しい言葉で伝わらないことも雰囲気なら何となく伝わる」というフレーズにヒントを得たモノでした。ブログでこういったフレーズを使う用になった「変な人という印象が加速してしまった」経緯がある中の人ですが、これによって結構いろんなご縁に遭遇するきっかけというのはあったりします。言葉と縁というものだけは理解を超えた何かによって接触するものだと思ったのは、その後この話術・文章術で色々と注目を得る機会があったことに起因するのですが…まあ、それは蛇足の中の蛇足ということで。

もともとがコミュ障持ちの私は「黙々と仕事をする生産職」が天職としてふさわしいと考え続けていましたが、個人で仕事をするにあたって「会話無き仕事は無職と同義」という事実を突きつけられる機会に恵まれてしまい…ここ数年は話術や雑学の類を真剣に学ぶようになりました。このブログもまた「雑談から得た無駄知識の記録サイト」としての機能を持たせており、記事もできるだけ過去記事に「雑学的な何か」を織り込むように気をつけるようにしています。ボキャブラリー故に得をする機会というものは少ないのですが、それによって思考や語彙力に余裕が生まれることには「相応に価値があること」だと思っています。そもそも「仕事とは人と人を繋ぐ活動である」という認識であれば「会話というキャッチボールは仕事そのものでもある」と置き換えることが出来るわけで、知識と話術の類は何よりも抜き出るほど必要である…と結論付ける事も出来るのでは無いかと考えています。

もっとも、このブログから「金言が棚からこぼれ落ちる」ことは考えにくいのですが、うっかり放たれた言葉を受け止めた人の中には「罵声にも似たフレーズ」であったり「金言とも取れるフレーズ」だったりするわけで…言葉と心は本当に万華鏡だと思う次第です。万人向けという訳でもないこのブログのこのワードひとつひとつがどう価値があるかなんてことは解りませんが、言葉は響きあい影響し合うものなので…うっかりワードが思いもよらぬエネルギーを発生するトリガーにならないとも言い切れません。だからこそ、「会話は楽しいもの」であり「嗜むに相当する行為」だと考える次第です。言葉はエネルギー。

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