今日もウェブには偏った思考に端を発する罵詈雑言が飛び交っているという話だそうですが、何故こんなにも悪意と偏見と攻撃行為に満ちた日々を送っているのかというのは興味深い話ではあります。何ならSNSにログインするのは「誰かと悪意あるプロレスをするため」であったり、「徒党を組んで気に入らないヤツを殴りに行ったりするため」だったりするケースが多く観測されるようになってきており、ここまで悪意に満ちた妄言と攻撃行為に満ちた場所に何が悲しくて通い詰めるようになってしまったのかと、SNSを大きくはじめた創業者の人にクレームを入れてみたくなったりもしました。想像できるのは「承認欲求という本能的欲求を満たすための地下闘技場」としてSNSは非常に効率の良い場所になってしまったという認識であり、結局のところ人類は「平和に慣れすぎると勝手に闘争を求めに行ってしまう」宿命を背負っているのかもしれません。憶測であって欲しいですが、地球上すべてに平和な時間というのが数秒でもあったかといえば疑問甚だしい話というくらいには人類は血と闘争に飢えているまでありそうではあります。
平和な時間というものが円でもドルでもユーロでも買えない事は多くの人が認知している事実であると思っていますが、認識と行動にはだいたい多少の誤差が存在しており、時間の流動と主に少しずつズレが拡大していくモノだと認識している次第であり、世界では今日も何処かで流血沙汰や闘争行為が横行しているという話でもあります。「平和のために武装して戦う」という行為には認識との誤差が激しい部分が明確に存在していると「認識は出来る」ものの、現実問題として「丸腰で平和維持活動ができるか」といえばまったくの無理難題であり、如何に人間の理想と現実が乖離しているかがうかがえる問答の例だと思っています。理想と現実が常日頃より乖離傾向にあるが如く、今日も何処かで紛争が起こり、物騒な事件が勃発し、「自称・平和の探求者」が破壊工作を行う程度には矛盾に満ちた「正義のための聖戦」が繰り広げられているわけで、人類が地球規模の平和を獲得するためには何ガロンの血の犠牲が必要かは未知数計り知れない数字になるものと思われる次第です。
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認知・差別・偏見の類は古来より人間社会の一部として浸透している暗部であり、人々は古代から「人として人らしく生きる術」を求めてきたと言われています。そのための政治であったり宗教であったりしたハズなのですが、歴史を紐解いてみれば政治に纏わる闘争や宗教に纏わる戦争、経済活動のすれ違いによる世界戦争など、闘争にまみれた歴史ばかりがピックアップされているように思います。世界の歴史にスポットを当てれば何かしらの戦争行為や国家闘争の記述が出てくる程度には地球の何処かで戦禍の記録が発掘されており、どの口が平和を求めるなんて与太話を吐き出すのかと小一時間問い詰めたい程度には矛盾にまみれているようにも見えます。今でもその系譜は受け継がれており、昨今は「多様性の旗振りをした少数派による倫理戦争」が勃発しているというのがSNSでは観測されていますが、そもそも人という生き物は「第三者に優しくなれるのかどうか」は甚だ疑問符が出る程度には疑わしい話になっています。
人類の歴史に潜む多くの『戦争史』
「戦争という後悔を繰り返さない」という旨の記述は多くの知識人が提唱してきた教訓の文言出会ったにもかかわらず、人類史が記録に残るようになって約2000年くらいの間にどれほどの数の戦史が生まれたかという話、現在もなお「戦争から得た教訓」というものが非常に短期間しか生かされていないという事実がある。これらの諸説に対しての回答は様々ではあるが、核心に近い発言があるとすれば「当事者にしかその後悔の念は理解できない」がもっとも有力かと思われる。第二次世界大戦が終結後「約80年」という時間が経過するわけだが、その間にもかなりの規模の戦争の記録は残っているし、時代変化があったところでその本質は変わっていないという実情がある。「第三次世界大戦の予測」もかつてから色々な角度で予想されてきたが、「戦争体験者の死滅を逆算するともうすぐ勃発し得るのではないか」というのは、昨今の世界情勢からも予測性が高いと言われている。
一神教界隈の住人から見た日本は「多様性に富んだ世界」だったと言われているようですが、その反面で「私たちの思考が一般的で無いのはおかしい」と怒声を挙げる人が増えてきているという情報も観測されるようになりました。確かに一神教界隈の思想から見れば日本の「八百万の神が宿る」というかなり尖った多神教の思想はとても理想の世界に映った可能性はありますが、その「八百万の神が『共生している世界線』を理解しているか」といえば甚だ疑問であり、「その思考があるなら私たちの理論がまかり通っても良いだろう」という主観の混合した解釈は私たち日本人の視点から見れば「解釈不一致」であり、「共生の世界に強制を求める」彼らの思考は受け容れられないというのが私たち日本人の回答の一例です。日本には日本特有の事情と取り決めがあり、彼らの生まれ育った土地にも同様の思考と思想はあったはずなのに「拡大解釈の暴走」にも見える彼らの思考によって、社会は少しずつ確実に混乱期を迎えている次第です。近年の移民問題に見る解釈不一致に起因する問題の多くが「共生の強制」であることは、何故認識に至らないのかは痛ましくもありますが興味深く観測している次第です。
移民問題に括らずとも、「何故そこに国境が存在するのか」や「何故違う言語や文化が存在するのか」を振り返ればそのルーツの一端を垣間見ることは出来るのでは無いかと思う次第です。「相容れないからそこに国境がある」や「理解が追いつかないから区別するための社会を形成する」など、そこには「然るべくして出来た暗黙のルール」があったと考えるのが自然であるというのが私たちの考え方です。そこに何故戦争や災難が多く関連付けられてしまったのかと言えば、片方・もしくは双方が「お互いを尊重しなかったから」に他ならないと考えているのですが、今その界隈にて中心になっている人たちはどういった考え方でもって社会に疑問符を投げかけているのでしょうか?
そこにあったのは建設的かつ論理的思考による対話ではなく、極めて小さな主観による正義論による武力的行為であったと推測されるのですが、それは人類史が記録されだしてからどのくらい改善されたでしょうか。そもそも「人類に於ける普遍的な正義と倫理」というものが何なのか、言われてみれば明確な定義も曖昧のようにも見えます。これに対して「腑に落ちる回答」を、私はまだ見たことがありません。
不法滞在移民たちの「構文」
「訳あり」でやってきた移民たちの多くが「自分たちの国ではこうだった」から「こう出ないのはおかしい」と声高らかに叫んでいる映像を定期的に見る機会があるが、それこそが「多様性を背景にした多様性での蹂躙である」ことについては一切言及しないのが彼らのダブルスタンダード。正規の手続きでない移民たちの多くが「自分たちの国での尺度」を持ち出すと言われており、それによる差別・偏見・犯罪行為が後を絶たないという話は世界規模での問題に昇格しており、「移民と鎖国との戦争」という図式が確立しつつある。
今日も今日とて、SNSでは差別発言や罵詈雑言・訴訟も辞さない発言などが飛び交っており、世界規模の話に視点を向ければ「私たちが正義だ」という旨の武力的行為のニュースが観測出来る人類の地球史ですが。これら「知的生命体たる人類が21世紀には解決出来たであろう問題」を無限に棚上げし続けている実情は今日なお継続しており、世界各地で紛争や武力行為の類の情報は尽きることがありません。宇宙開拓の時代が近いと言われてきた半世紀前の人々がこの時代の悲劇的状況を見たらどう思うかは想像に難くありませんが、今日も何処かで「価値観の違い」や「神様の生まれの違い」で戦争をしている国がいくつも存在していることを、少しでも多くの人に情報として共有したいと願っている次第です。「平和」というものが「人類の叡智」ではなく「後悔の産物」であることはもっと共有されて然るべきと思っているのですが、それを認知し渋々でも認めるには、やはり地球規模での「人類の後悔」が必要なのかもしれません。気付いたとして、認めない人々の母数が多そうではありますが。
こんな辺境での戯れ言に目くじらを立てる人は少なくとも存在する、どの口が語る「多様性」なのか。結局は「多様性の皮を被った偏見ではないか」と言ってやりたい。インターネットという技術が一般生活に浸透して約四半世紀くらいですが、こんなにも「人間の暴露機関」として機能するなんて予想だにしていなかった、四半世紀くらいの短期間でこんなにも化けの皮が剥がれるものなのかというのも趣が深い話ではあります。「神学より心理学」とは、これ如何に。



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