最近のお笑いのツボが解らない、そんな話がちょこっと身内で盛り上がる話題のネタになったのでポスト。最近のお笑い界隈のネタが解らないご年配勢の一員入りを果たしてしまった中の人もその辺には頷いてしまう部分が多数で何となく聞いていたのですが、逆に覚えている古典的なギャグって何だろう? って言う話で古今東西的な話をずっとする羽目になったという一幕がありました。意外と皆さんが「古典的なギャグが好き」というよりは「面白いというより記憶に残るお笑いをやっていたよね」っていう話で締められてしまったのですが、見る機会があれば80年代から90年代のコントやコメディ映画を見てみると良いかもしれません。ちなみに、ダントツだったのは「ザ・ドリフターズ」の全員集合のアレだったのですが。
昨今のお笑いのツボって良くわからない、という話に「情報のストック」というのがあるように思っています。ギャグというかネタというか、笑いとは「意外性のセッション」であり「視聴者のネタのストック」にあると考えているギャグ論を持っている中の人。「ネタ合わせ」の言葉が示唆するモノが「複数のネタを混ぜ合わせる行為」を指すものであり、混ぜる具材たる「元ネタは視聴者の脳内から引き抜く」わけであり、何が言いたいかというと「私たちはかつて元ネタ情報の多くを実は無意識下に共有していた」という話であり、ファミコン版ドラゴンクエストで感動を共有できるくらいの世代の人たちはおおよそ相応に情報通だったのではないかという推測の話だったりします。私も老いた。
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今はチップチューンと呼ばれているそうな、いわゆる「ファミコンのピコピコ音による音楽」は今は新しいイメージに刷新されて楽曲の一部としてジャンル付けまでされるに至っているという話であり、DTMと呼ばれる一連のデジタルベースの音楽の基礎や原型は今なお「昔のままのテイストを残しつつ共存している」というのはやはり「礎の大きさ」みたいなものを感じます。ただ、今日ポストしようとしているのは、音楽の話ではなくお笑いの話。
ギャグの定義はわりと広義で規定されている都合上それをひとくくりに表現するのは難しいのですが、滑稽や冗談から皮肉や風刺に至るまで色々なモノを組あわせた表現技法のひとつであると記されています。昨今は笑いを誘うモノに対してギャグという表現が使われることが多いようですが、元々の由来は「言論弾圧に対しての風刺的表現」であるともいわれています。笑いのテイストも複数あるように、その由来も多岐にわたるものである、と私は聞いています。調べればもっと別の語源や由来にあたるかもしれませんが、今回記述したいのは「お笑いに紐ついた」話のギャグ談。
「風刺のルーツ」がユーモアという話
コントや舞台芸といった分野から笑いが込み上げたという「それすらも規制線が張られていた」時代に、「時代の狂った部分を風刺する」ことで笑いを誘ったという一連の表現が現在の「お笑い」のルーツであるというのが言われている。古典芸能の中には時代風刺を専攻する表現が多く盛り込まれたという事例も複数あるとされ、現代では時代考証のひとつの手がかりになるともされている。ただ、「表現そのものに大きな規制が駈けられていた時代」の「遠回しの表現」なので、それが的を射ているかと言えば定かではないという意見もある。
笑いとは「共有知」であり「意外性」であり、それらを混ぜ合わせた「表現の一種」と考えています。表現なので、そのニュアンスの受け止め方はすべて第三者任せという「想像にお任せします」方式。解るひとには笑いを誘い、解らないひとにはチンプンカンプンというある種の「知識遊び」なのかもしれません。記憶に残るお笑いの多くが割と十数年前まで遡る古典的なものが多いのは、それらが非常によく知られた元ネタで構成された親しみやすい題材のモノだったからかもしれません。スターウォーズを知らない人がいないからスペースボールというパロディ映画が注目されたという話などからも、当時のコンテンツの多さと認知度の高いコンテンツからの引用によるパロディは多くの記憶の保持につながったものと考えています。
ギャグについての細かいツッコミどころはまだまだ沢山あるのですが、キモとなる部分は「視聴対象者がすべての元ネタを知っている」という部分であり、実は予め視聴者の脳内情報を網羅する必要があったということで、笑いが取れるかどうかはわりとギャンブルだったという話。80年代コンテンツでザ・ドリフターズの注目度が高かったのは、あのアドリブ性の高いコンテンツを生放送でやってきたという「存在そのものがアドリブコンテンツ」という、ある種のコントの究極形態をやり続けてきたことにあるのかもしれません。それを考えたら80年代コンテンツは相当贅沢なリソースを割いたお笑いコンテンツに溢れていたのかもしれません。ちなみに、私が推したお笑いの古典は「モンティ・パイソン」。英国の誇る古典ブラックジョークのパンドラボックスというアレ、当時は相当パンチの効いたブラックユーモアだったと聞きます。
90年代には有名映画のパロディ作品も結構多数あったように思います。おおよそテレビの放送コンテンツが主となる娯楽だった時代ならではだったかもしれませんが、あの頃は地上波で毎週のように映画番組が組まれていたこともあり、有名タイトルのパロディ映画は砂に染み込む水のように受け入れられました。多様化著しくなってきた2000年以降、いわゆるネット普及期になるにつれてコンテンツそのものが多様化を辿るようになり、パロディ映画は方向転換を余儀なくされたようですが、旧作で見る機会があれば一度「元ネタ込みで」見ていただきたいと思う次第です。「コマンドー」とか。
笑いに於ける「駆け引き合戦」の様相
お笑いとは「元ネタの周知率」に起因する巧妙な「知的交渉術」だといわれている。複数の元ネタを混ぜ合わせることによる「再発見」を「面白い」と認知させることが「元ネタありきのコント」の基幹部分であり、「周知された情報」が多ければ、より大きな笑いを得ることが出来る。古典落語などが難解な言葉のように見えるものの、その根底にあるのは「当時の共有知」であり、その構造や基幹部分はほぼ変わることがないとされている。昨今は「より直情的な笑い」が認知されやすいといわれていることが古典的笑いの界隈では言われているが、昨今は「インターネット上でミーム化した情報」が「古典情報」として周知されるようになっており、お笑い界隈に復調があるとも囁かれている。
そこからの「昨今のお笑いって面白いの?」という高齢層の質問に返答する術がなかったのが昨今のお笑い事情。おおよそ万民向けとして供給されたネタの原点はもはや古典の域に達してしまっており、親しまれなくなって久しい古典コンテンツには触れられることなく「マニアック入り」を果たしてしまい、今はより「直感的に受け入れられる笑い」が主流になってしまったらしいという話。インターネット老人会と呼ばれる昨今の40代チームの切ない涙が感じられるエピソードですが、時代の変化と共に笑いの環境は確実に変化したと思います。
記録していないと忘れられてしまう程度のインパクトしか与えられないお笑いコント、記憶に残らない毎年の名言集など、記録を辿る機会が無ければ埋もれ忘れ去られてしまうコンテンツがそれだけ量産される昨今のコンテンツ業界、そもそもお笑いというものが実は意外と崇高な知識遊びだったという衝撃と、時間の流れがこれほどにまで記憶を風化させるという事実。2010年くらいのお笑い芸人がどのくらい生き残っていて、いまなお笑いに取り組んでいるかというとそれはかなりの少数であり、そもそも「それは面白いのか」という疑問符を投げかけられる21世紀枠のお笑い。そしてなにより「笑い飛ばす元気すら持ち合わせていない21世紀の現在」という事実がまた重くのしかかり、私たちが笑顔を取り戻す日がいつ来るのかは果てしなくゼロに近い時代ですが、それでも笑う心意気だけは忘れないようにしたいという昨今の井戸端ネット会議の話の一端。
でも、もともとギャグっていうのは風刺や皮肉を込めてのものも含めているので、今の笑いは「心からの笑顔での笑い」ではないという越えられない壁があってつらい気持ちになります。オススメのコメディ映画とかを物色するのがちょっと楽しかったりするのですが、何だかんだで旧作か旧作のリメイクだったりして、ちょっと複雑な気持ちになる今日この頃。



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